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人生

親戚の蕎麦屋

土曜日に親戚が開いている蕎麦屋に行った。親戚と言うのは、母方の祖父の妹(姉かもしれない)である。彼女が蕎麦屋を切り盛りすることになった経緯は定かでないが、嫁ぎ先の夫が料理を生業とすることを決め、妻である彼女がそれに寄り添ったのであろうと推察している。

蕎麦屋の最寄り駅は東京メトロ東西線の某駅である。学生時代は東西線をよく利用していた。何かと都内に出る用事が多かったのだが、JR1本で都内に向かうよりも、西船橋東西線で乗り換えて目的地に向かう方が、安く済むことが多かったのだ。そういえば西船橋駅総武線各駅停車のホームにはエスカレーターが1つしか無く、常に長蛇の列ができていたことを思い出す。また、私は大きな楽器を背負っていたので、後ろに並ぶ人には気を配っていた。そう言うわけで、学生時代は東西線沿いにあるその店にはよく立ち寄っていた。楽器の練習や、就職活動の帰りなどに某駅で降り、その店まで歩いた。アルバイトの女性も店主も、いつも温かく迎えてくれた。今や高齢となり店先には立っていない親戚も、わざわざ寝食のスペースとして使用している2階から降りてきて、私に声をかけてくれた。まるで私のことを家族だと思ってくれているようだった。ただ、率直に言うと、そんな温かさにも、当時の自分は居心地の悪さを感じていた。当時は私の地元でさえ、多くの我慢を強いられ、理不尽に耐え、屈辱を味わった場所だという思い出だけが胸の底に常にあった。人の親切は温かいのに、温かい親切はどうしても地元で苦しんだ記憶に紐付いてしまうのであった。

社会人になってから引っ越したアパートの場所は、東西線とはあまり縁のない場所であった。そもそも東西線を使用しなかったため思い出すこともなく、また、社会人生活時代は家と仕事の往復や、沈鬱とした気持ちで動けなくなる時間に私のほぼ全てが消費されていた。そういう理由で、お蕎麦屋さんからは足が自然と遠いて行ったのだった。社会人1年目の時に、一度、楽器練習の場所がその店の近くであったことがあり、その施設予約のついでに蕎麦屋に足を運んだことがあった。親戚のおばさんに「これから○○へ練習施設を借りる手続をしに行く」と伝えると、彼女から、「●●が車で連れて行ってあげればいいじゃない」と提案してくれた。●●君とは彼女の孫である。彼女に孫がいるという情報だけは聞いていたが、顔も名前も正直なところ知らなかった。また、私は徒歩で施設に向かうということしか発想になかった私にとって、これは思いがけない提案だった。恐れ入りながらお言葉に甘えようとお願いしてみると、●●君は二つ返事で引き受けてくれた。彼の顔はその時に初めて見た。短髪に整えられた太い眉、適度に陽に焼けている肌。彼は私より何歳か年下だと聞いた。太陽のような無邪気さと自信が溢れている、若い顔立ちだと思った。また、張りがある声にも若さが漲っており、快活な話し方にも人を安心させるような信頼感があり、彼の人間性が滲み出しているようだった。私は彼の車に乗せてもらった。東京育ちなのに車を持っていることに珍しさを感じ尋ねてみると、「友達と遊びに行くときに便利だからローンで買った」「最近車検代でまた給料が飛んじゃったんですよ」なんていう等身大の答えが返ってきた。当時彼は調理系の専門学校を出た後に、銀座の料亭で働いていると言っていた。銀座であれば当時の職場が近かったので、行ってみようかと思い話を聞くと、「ランチなら3,000円か4,000円くらいで大丈夫ですよ」と歓迎してくれた。その頃私は、500円前後のコンビニ飯で昼食を済ませていた。彼の働く店には是非とも行きたい気持ちはあったのだが、行くのは何か特別なことがあった時にしようと思った。

土曜日に例の蕎麦屋に向かおうと思ったのは、私が実家に帰省した時に、ちょうど高齢の親戚の嫁ぎ先の夫の訃報を聞いたからだった。それまでは蕎麦屋のこともすっかり忘れていた。お孫さんの彼に車で練習施設に送ってもらってからの私と言えば、公私共に忙しい生活を送っており、様々な人間関係にも耐えることができず、精神的に限界を迎えていた。一度ダウンしてからは、沈鬱とした胸に迫る苦しみに定期的な頻度で苛まれており、これまでどうやって生きていたかさえ分からない程だった。畢竟、電車に乗っても通りすぎることさえない駅が最寄り駅の蕎麦屋については思い出す機会さえ無かった。自分では無理もないことだと納得している。訃報を聞いた時には、私の生活や日常もルーティン化して、自らを落ち着けられるようになってきていた。亡くなった彼とは、親戚と共に彼らの居住スペースでテレビを見ながらお茶を飲むことも何度もあった。私を温かく迎えてくれたご一家への感謝の記憶、美味しい蕎麦の記憶が、私の足を再び例の蕎麦屋に向かわせたのだった。ご家族が、今どのような気持ちで日々を送っているのかは分からない。だが、お世話になった私としては、せめて仏花を備え、仏壇に手を合わせる、最低限の儀礼はさせていただきたいと思っていた。

前置きが長くなってしまった。当日の話も忘れないうちに書こうと思います。